本郷谷の中村の谷筋にある畑の傍らで文化11年(1814)、百姓の亦市と常右衛門の親子が大きな銅鐸を掘りあてた。
『佐用郡誌』にその図と出土の事情が詳しく書かれている。
実物は発見当時、殿様に寄進されて森家の所有となり、その後、明治5年(1872)東京で開催された古物展覧会に出品された。そこまではわかっているものの、今では行方不明となっている。
この銅鐸は、平田篤胤の『弘仁暦運記考』という本に山崎町須賀沢出土の銅鐸のことを述べたことに続いて、「また、文化十一年五月十七日に、同国佐用郡三日月下本郷村より掘り出せるも、だいたい同形にて稍々小なり」と記している。
この図面によると、この銅鐸は「けさだすき式」の表裏同じ模様で、底の一部が壊れている以外はほとんど完全なものである。銅鐸の分類でいえば、鐸身に太い盛り上がった線の装飾がある突線鈕式(近畿式)または第7式と呼ばれるもので(右の写真)、耳に透かしがあるこの銅鐸は例が少なく、貴重な物である。
また、南光地域の西徳久から出土した銅剣と合せて、この付近が弥生式時代の中後期、すでに相当開けており、近畿と北九州の東西両文化圏の接点になっていたのではないかと類推できる。
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