明治初期は、どこの河川においても土手堤があっても石積みの堤防はまだ整備されていない所が多く、そのため、たびたび水害に悩まされたようで、中でも明治23年(1890)と25年(1892)の洪水は未曽有と言われるほど大きな被害をもたらし、悲惨さを極めたそうだ。
明治23年9月17日の大洪水は三日月村では「惨害甚し」、大広村では「全村に亙る洪水、田十數町被害、堤防數10カ所決潰、3人溺死者を出す」とあり、その被害は大きく、山からは水が噴き出るように流れ出し、当時の国道上を木壁や柱、家具、臼までもが流されて行ったそうだ。人々はお宮のある山に登って避難したとも伝わっており、当時の学校では3日間休校したほどだった。その洪水による被害を伝えるため大洪水の「紀念碑」が茶屋に建てられ、今に残っている。翌24年に、流されてきた大石にその被害状況を記したものである。
明治25年7月23日の大洪水は三日月村では「御下賜金197圓を忝ふす」、大広村では「田畑20町歩浸水す、山林崩壊100カ所に及ぶ、家屋流失3戸、復旧費3萬圓に達す」とあり、本郷川・角亀川水系の堤防が崩れ、耕地が流されるなど本郷谷や茶屋、三日月での被害が大きかった。また、下流の大広村での被害も甚大で、その被害の状況を記した額が久保の八幡神社に掲げられている。
最近は異常気象のため、集中豪雨や大洪水による被害が多く発生しており、防災教育や避難訓練の重要性が再認識されるようになってきている。こうした過去の被災記録から学ぶことが多くあるにちがいない。
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