末廣の新宿集落の北、山裾に「中津川の宝篋印塔」がある。この塔の高さは約1mで、蓮華座の台座には「播磨国中津河」「嘉慶二(1388)八月十九」と刻まれている。
中津川とは『播磨国風土記』に見られる「中川の里(仲川の里)」、また『和名類聚抄』にある「中川郷」のことである。その名の由来は、神功皇后が淡路の岩屋で船をつないだ時に暴風雨が起こったので、この地の大仲子(おおなかつこ)が菅を編んで風雨避けの苫屋を造ったことに始まる。神功皇后は「そなたは国の宝だ」と褒めて「苫編首(とまあびのおびと)」の姓を与えた。里の名はその大仲子に因んでいる。この地名は岩屋をはじめ、河内・伯耆・因幡などに散見される。
嘉慶とは南北朝時代の北朝、後小松天皇朝の年号で、今から約630年前になる。この宝篋印塔によって、延喜7年(907)に撰上された『延喜式兵部省』に書かれている「美作路中川駅」がこの辺りにあったことが確認できる。当時は、美作街道のうち佐用郡内でただ一つの延喜式駅であって、管用の駅馬5匹が常備されていたようである。因幡道と出雲道との分岐点に近く、諸国からの人々が往来し、珍しい品々の交換も行われていたことが想像できる。後年、後鳥羽上皇、後醍醐天皇はもちろんこの道をお通りになったのである。
仏舎利塔はお釈迦さんの骨を納めたものだが、宝篋印塔とは陀羅尼経を納める塔のことで、後に供養塔・墓碑塔として建てられた。これを礼拝することで罪障が消滅し、苦を免れ、長寿を得ると信仰されてきた。三日月地域にこうした宝篋印塔は多く残っている。真宗、仁増、添谷、三日月などにも立っており、この土地が栄えていたこと、人々の信仰心が厚かったことがよくわかる。
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