忠霊塔の定礎に「皇紀二千六百年紀念 昭和十五年建設」とある。皇紀(こうき)とは、初代の神武天皇の即位を元年とし、西暦よりも古い紀元前660年を皇紀元年としたものである。昭和15年(1940)がちょうど皇紀2600年目ということで、この年は全国で様々な催しが行われた。時あたかも、日中戦争(支那事変)が長期化することにより国民の生活はいっそう苦しくなりかけた頃にあたる。忠義のために生命をすてた者の英霊をまつる、こうした忠霊塔を建設する特別な意味があったのだろう。しかし、この年は太平洋戦争直前にあたり、明治・大正時代から満州事変、日中戦争までの戦没者が対象であったはずで、その後の戦争でさらに多くの戦死者名がこの塔に刻まれることは、誰が予想しただろうか。
忠霊塔が現在の場所に設置されたのは昭和34年(1959)で、その4年前に三日月町と大広村が合併している。当時、町内で唯一の忠霊塔として大広小学校裏に設置され、その前で慰霊祭が行なわれるようになった。その際に、太平洋戦争での戦没者の名も塔の周石に刻まれたようだ。総数は、明治・大正時代で17人。満州事変・日中戦争・太平洋戦争で232人。塔の前に立てば、平和な世の中が永遠に続きますようにと、ただただ祈るばかりである。
なお、日露戦争の記念碑は、久保の八幡神社や新宿の十二世神社に建っている。それらの正面には「戦捷紀念碑」「征露記念碑」とある。それらが意味する歴史も考えたい。
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