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mikazuki0790

三日月さんぽ⑭ 志文の六地蔵

 各所にある多くの六地蔵は葬式の引導場に建てられることが多いが、ここ志文の六地蔵はそれらとは異なった由来がある。この横には三日月の乃井野から宍粟の土万につながる道が通っている。かつて、江戸時代のこと、三日月藩領である土万の百姓たちは冷夏による不作続きで年貢に苦しみ、生活に困窮していた。その窮状を藩へ直接に訴え出るため、土万の庄屋6人がそろって訴状を隠し持って道を急いでいた。ところが、その動きを察した志文の庄屋の密告により藩の役人に捕らえられ、牢屋に入れられてしまった。当時、直訴は御法度となっていて見つかれば厳罰に処せられる。その動きを知っていて黙視していた者も同様の罰を受ける時代であった。



 その後、6人は処刑された。志文の庄屋はそのたたりを恐れて、この六地蔵を建て祀ったものとされている。左から2体目の地蔵だけが新しいのは、かつての洪水で流された六地蔵を川原から掘り起こしたときに、どうしても一体の行方がわからず、後になって作り直されたからである。


《 雲 梅 橋 》

 六地蔵のすぐ川上に「雲梅(くもうめ)橋」がある。とても風情が感じられる名前で、一説には、この地で雲がはれて梅の香りが漂ったという話から命名されたとある。他方、志文川の古称である「公文(くもん)川」から付けられたという説も伝わっている。



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