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mikazuki0790

三日月さんぽ㉒ 徳平の城山

 徳平橋の上に、木の茂った山が道や川に突き出るようにある。これが徳平の城山(じょうやま)で、中世の城跡と言われている。しかし、城とはいっても土塁がある程度の山城で、敵が攻めてきた場合に逃げ上がって立て籠もり、敵からの攻撃を防ぐようにした場所で、いわゆる砦である。建物を据えるような平地はなく、馬落しの深い溝跡が2カ所ほど残っているにすぎない。城主は白旗城で有名な赤松氏の一族で、得平左衛門の居城と伝わるが古文書の記載は見つかっていない。あるいは、米田城主の弟の得平三郎頼景が一時的に居住した場所だとの説もある。その山に近い志文川に架かる橋の名は「城下橋(じょうしたはし)」となっている。



 三日月地域にはこの他、鎌倉の入口の天満に「天神山城跡」がある。中世嘉吉の乱後、播磨の国を領有した山名家の家臣であった小笹九郎兵衛の居城であった。やがて応仁の乱の後に赤松家が再興したものの、もと大内谷城の本郷氏の後の奥五郎兵衛尚重が、宍粟・長水城の宇野家の力を借りて夜襲し、落城したと伝えられている。また、大内谷城は本郷弥三郎の城で、馬かけ段と呼ばれる平坦な馬場跡がある。その上に2段になった平地が山城の跡である。


 さらに、広山城は広山のどこかにあったことは古文書に残っているものの、所在地ははっきりしていない。多賀登山だとか、弦谷山だとか、金子山だとか諸説があるものの決定的なことはわかっていない。

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