これは藩校であった廣業館の歴史を受け継ぐ廣業校の建物の一部を、昭和55年(1980)に列祖神社の境内に移築した記念館である。
廣業館は寛政7年(1795)、五代目藩主の森 快温(はやあつ)により建てられ、盛時には文学部150人、武芸部400人に達し、郡内はもとより赤穂郡や岡山県域からも学びに来ていた。当時の所在地は、表門から陣屋に向かって緩い坂を上った丁字路の北西(現在は田圃)に建っていた。教職員は約30人で多くの著名な学者があたっていた。高蔵寺や慶雲寺に○○先生墓というのが多くあるが、そこに刻まれた碑文を読むと、それらは藩校で教育に携わった人たちであったことがわかる。多くの人材を輩出した藩校は、明治4年(1871)まで80年近く続いた。明治の廃藩置県の後、茶屋(現 支所の東)に流れを継ぐ廣業校が建ち、戦後は広業小学校、さらに3小学校(広業、大広、大畑)の統合で三日月小学校となり、昭和40年(1965)三方里山の東中腹に移転新築したのが今の鉄筋コンクリートの校舎である。
《 落葉の清水 》
この南下の道横には『落葉の清水』がある。小さな水たまりのようにも見えるが、これが播磨十水の一つとして伝わっている。播磨十水とは、室町時代に茶の湯に熱心であった置塩の二代城主赤松播磨守義村が播磨の国の中から優れた十か所の湧き水を探し出して名付けたものである
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