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三日月さんぽ⑨ 平知盛塚

  旧家に残る古文書には、源平合戦で平家一門が滅び去った際、入水を免れた者たちが深山幽山に忍び入り、この地に隠れ住んだとある。また、この地を開拓・耕作し大いなる畠を開いたことから「大畑村」と呼ぶようになったともある。

 堂内には二基の五輪塔があり、平知盛夫妻のものといわれる。その構造形式から室町時代中頃のもので、平成14年(2002)に町指定文化財に指定されている。堂の前には「白河天皇御孫平中納言知盛浄正墓」の標柱が建っており、その横には「末子知忠の作なりと伝う」とある。



 平知盛は清盛の四男で、治承4年(1180)源 頼政を宇治で滅ぼし(宇治川の戦い)、養和元年(1181)源行家を美濃で破ったことが知られている。寿永元年(1182)源義仲に追われ、一門とともに西走し、一ノ谷の戦いに奮戦したが敗れて屋島に逃れた。文治元年(1185)屋島で源 義経に敗れ、次いで長門における壇ノ浦合戦の総大将としても敗れ、安徳天皇はじめ一門の女性たちの入水を見届けて自らも入水した。この経緯は謡曲『舟弁慶』や浄瑠璃『義経千本桜』などに戯曲化されることも多く、壇ノ浦の戦いの場面で、「見るべき程の事は見つ」と言い放って入水する姿がよく演じられる。



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