北条時頼は寛元4年(1246)より10年間、鎌倉幕府五代目執権として裁判制度などの改革を図り、幕府体制の強化に努めたことで知られている。
執権の地位を長時に譲ったのち、仏門に入り覚了坊道崇と名乗り、最明寺入道と呼ばれ旅僧に姿をかえて諸国を行脚したことは『増鏡』や『太平記』に伝え記されている。
諸国廻国の途中にこの地を訪れた時頼は大雪で旅の道に難儀し、ここの民家に宿を取った。引き続く旅の疲れからか病に倒れ、正元元年(1259)11月から翌年2月までの三か月間ここに滞在した。村人の庇護のもと体を癒し、自作の木像一体と歌二首を残して、人知れず何処ともなく立ち去ったと伝えられている。
北条時頼の彫像のうち国指定重要文化財は、鎌倉の建長寺に伝来する俗体像とこの僧体の二体のみである。この像は桂木による寄木造りで、彩色、彫眼で鎌倉後期の秀作として旧の国宝、現の重要文化財に指定されている。
歌の一首は
「何国とも 知らで道にぞ やみぬべき 晴間も見えぬ 佐用の朝霧」とあり、
『春哉の里』と題したもう一首は収蔵庫の横の碑に次のように刻まれている。
「深雪にも あさる雉子の 声聞けば おのが心は いつも春哉」
この歌から下志文村といっていたこの地を改めて、春哉村と呼ぶようになったと伝えられている。
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