「三方里(さんぼり)の松の緑に 古えの跡を尋ねて・・・」と、三日月中学校の校歌の一節にある。
三方里山はかつて三つの山頂を掘って谷に埋めてできあがった調練場で、三方に人里があることから名付けられた。当初の広さは120aあった。今では東中腹に小学校、西中腹に中学校を建てたため、面積は減少しているものの、町民が憩う公園として整備されている。
幕末における外国艦船の渡来により、三日月藩でも調練場の必要性を痛感し、明治維新から3年前の慶応元年(1865)に起工している。その工事は領内から毎日2~300人の人夫を徴発し、まる2年かかっている。当時、藩が統率した兵員は約300人で、これを三部隊に分けて西洋式の訓練をしていた。ただし、この場で訓練が行われたのはわずか数年間で、やがて廃藩になり調練もなくなった。広場となった山頂では、明治、大正時代には運動会や競馬が行われた記録がある。今でも一部に当時の石垣などが残っている。
かつて三方里山には、素戔嗚尊を祀る演武神社があり、菅原道真を祀った天満神社もあったというが、いずれも明治38年(1905)に日岡八幡神社に合祀されている。
昭和30年代からは山頂の整地、水道設備、運動用具の設置がなされ、山上までの道路がつき、桜の苗木が多く植えられ、公園になった。その後、中腹に統合した小学校が建ち、中学校も三日月から移転した。
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